褒めて伸ばすは大間違い 宇都宮隆二さん(ウツさん) 文字起こし

褒めて伸ばすという言葉。

聞いた瞬間から違和感がある。

褒めて伸ばす…我々の時代(昔)は怒られて伸びるでした。

今の子供の数は、我々の時代(昔)の半分。

怒って、我々が色んな怒られて怒られて怒られて、それでも這い上がってきて、

生き残ってきたということだけでは、日本の成長というのは難しい。

学校教育も変わった。

我々の時代(昔)は体罰の時代。

でも今は、体罰っていうのはない。

したがって、怒られ慣れてないということから

褒めて伸ばす=怒っちゃいけないんだっていう風に解釈をしているかもしれない。

一部正しいです。怒り方に関しては。

指摘、怒るというよりも指摘であるべき。

ある程度理解されていると思うけども、

我々の時代にあまりなかった物がある。

褒めて伸ばすの核心のところというのは「認めて伸ばすということ」


新人(子供)が例えば、成果をあげました。

一個何か出来ました。ここに対して「ああ、できたな。ふーん」じゃなくて「よかったね」と認めてあげる。

そしてその出来た過程というのをしっかり見てあげる。

あなたの実力が10だったとしましょう。

そして新人(子供)が1だったとしましょう。

その1の新人(子供)を10の基準でみるのではなくて、1の基準で見てあげて、あなたも1だったんだから、私も1だったんだから

この過程のなかで上手くできていたところっていうのを積極的に認めてあげるんですよ。

なんでそうするかっていうと、人間の能力っていうのは丸くは作られていません。

私も歪(いびつ)です。

でも、その他の人も、そしてあなたも、どっか抜けた能力があって、

そして、至らないところがあって、それでも成果をあげてきている訳です。

その1から10の過程において、自分の10ではなくて、その1の新人(子供)の仕事のそして成長の階段を上っていく過程で、一個一個を「あ、よくできたじゃん」っていう風に認めてあげる。

で、この過程を認めてあげることによって、階段を上るのが面白くなるわけですよ。

そして、その階段を上る姿の過程を見ていくと、その新人君からも3年目くらいになったら自分自身が学ぶことだってあるかもしれないです。

我々の時代(昔)は、ある程度画一的にドーンというような中からやってきました。

でも「あ、こんな考え方もあるんだな、こんなやり方もあるんだな」っていうことで学ぶことがあるかもしれません。

あなたが結果だけをみて「あ、うん、よかったじゃん」っていうような態度では、その過程の中で自分自身が取り込むことも無くなるんじゃないですかっていうこと。

実際にこの階段を上っていたら、もう一個重要な仕事として管理職っていうのは、階段を上っていくときに大きな障害物があったら、それを自分が取り除けるんだったら取り除いてあげるということも必要。

これはこれでいいでしょう。

でも、この褒めてあげるというところの、やっぱり言葉が大きく間違っていると思っていて、私は過程を認めてあげるっていうところです。

これによって、成長する。前に進めるようになる。

これが核心のところで、やたら褒めるわけではなくて、しっかり過程を見てあげて、そしてその過程というのは自分の実力値から見るのではなくて、1の基準で、3の基準で、6の基準で見てあげながら、その過程をしっかり認めてあげること。

そうすることによって、認められた相手というのは、「あ、これでよかったんだ。これが俺の力になってんだな」っていう風に確認をしながら成長をしていくことができる。

我々、管理職の立場にあったり、若手に指導する立場にある人間というのは積極的にその人の実力のなかでの過程。

これを成長の軌跡における過程というのをしっかり認めていこうではありませんか。

褒める。

褒めて伸ばすというのは間違いで、「認めて伸ばす」という風に解釈したら、新人との、そして若手の社員とのやり取りというのも変わってくるんじゃないかなという風に思います。

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